MEMEと自我って意味でのメメントモリ

 MGSPW~MGSV:TPPでの感動を忘れないままにデスストをプレイするぞと意気込んでいたものの、季節の変わり目か双極恒常性の下のほうにズドーン、だったために未プレイ。生来なのか弱気な逆張りなのか、大熱量のムーヴメントの影でのほほんのほほんするのが精神にはいいので、元気が出た時にしっかりプレイしようと思う。

 

そんで先日新潮版の『僕の愛したMEME』を購入。別に世間とストランドしたかったワケじゃない。半年くらい前に押井守等の著作を貪っていた折、思考の一端を垣間見れればと思ってダ・ヴィンチのオリジナル版を探し結局見つからないままだったので購入した。購入した、が。うーん。

 

第一章21ページの「ボクらのSF」に『ボクらの太陽GBAキッズであったがために(言うまでも無いが監督・プロデュースは小島秀雄)一瞬ボルテージが上がったものの、そこからは緩やかに下って行った。そりゃそうだ。偏愛エッセイとある通り、この本は酷く自我的だ。それも小島秀雄と言う人間の自己カウンセリング本の類。ファン必携、ではある。THEBOSSとBIGBOSSの元MEMEがポール・ギャリコの『ジェニィ』であると言う暴露なんかは、彼のイマジネーションのなんたるかを教えてくれる。山猫部隊≒オセロット≒ザボスの息子=単に猫繋がりでは!? みたいな読む前じゃ在り得ない思考を誘発させる(絶対ないけど)宮部みゆき中島敦など、他にもあるが連続体から産まれる連続体なんて挙げ出せばキリがないので割愛。

ともあれ、自身が血肉として喰らって来たあらゆるMEMEが、現在の総てに繋がっていると言う強固な自己肯定、それに突き動かされるある種のトランス状態が創作活動に多大な影響を与えることは間違いない。この本は小島秀雄が自身を探るように、強固で在り続けるようにと心掛ける、ある種の力動療法的な雰囲気を感じる。
だってのに、ただでさえ複製転写された小島色のMEMEを、MEMEに呑まれて自我さえ見失い兼ねないとこまで来てるローズとソリッド・スネークのいなかった雷電みたいなインターネッツ攪拌世代一端である自分には、相応の活力と全能感が無ければ是とすることが難しい、というのがぶっちゃけた感想である。中学生の頃に『イチロー・イズム』を必修で読まされたあの感覚に近い。いや全然易しいけど。
本著は本と映画を喰らう習慣のある人間ならば読まなくていい。本で人の思想は積極的に見るべきだが、人の思考法(戦術・戦略は除く)までは参考にならないと言うことだ。

此処で感じたのが、小島秀雄が監督と称される所以である。
彼はゲームと言う媒体で映画を作っている。緻密なまでのレイアウト、世相と思想を織り交ぜたポリティカルな脚本、そしてそれらを実現してしまえるハリウッドシステムならぬコジプロシステム。彼は作品の神なのであって、投影されたキャラクターではないと言うことを再確認した。
GENEの申し子であるソリッド、リキッド。彼らの忌み子としての葛藤は『トゥモロー・ワールド』のMEMEであって彼が苦難しているものではない。雷電も然り。PW~GZのビッグ・ボスには自我奔流を感じるが、TPPのヴェノムことエイハブはプレイヤーに投げている。(返していると本人談)


何が言いたいかと言うと、彼は自身のMEMEを結集させ、しかしそれに呑まれることなく映画を作り通して来たというコトだ。「呑まれるってなんだよ!」というのは伊藤計劃の『虐殺器官』を引っ張るのが早い。


"MEMEが人間を規定するのではない。MEMEのほうが人間に寄生する"

 

小島信者であった伊藤計劃は、処女作で小島へのアンサーを弾き出していた。
もっとも、主人公は根本の強迫観念を払拭しきることが出来ず、最期には過激が過ぎるカタルシスをデリバリー・ピザを頬張りながら引き起こすわけだが。
よりインターネッツ世代に近い伊藤計劃のほうが幾分も親しみやすいのは畢竟(一緒にされてあの世で怒っているのだろうか等と自惚れ甚だしい強迫観念も実にらしくて笑える)現にMGSTPPで一番小島秀雄人間性を感じたのは、コナミにいた時の状況だとか、信念のある愚連隊を維持するためには抑止力を持たざるをいけない状況だとかでなく、核じゃなくて言語株なんてジェノサイドなオルガンを唐突に出してきたことと『Sins of The Father』のリリック "Words that kill" に、他の誰より小島自身が伊藤計劃幻肢痛に苛まれてんじゃねぇか! と言うところ。著作をよりこっちのが印象深かった。


それ故に、小島の一推しが『虐殺器官』であり、円城塔の、円城塔にしては叙情的な鎮魂歌である『屍者の帝国』を生きていれば生涯の傑作であったかもしれないとまで言い、MEMEどころか息をすることさえ覚束ない『<harmony/>』にはカズオイシグロの文法着想の話だけな辺り、先に挙げたMEMEへの自我喪失の深度故だろうかなど、いや、人間生きて行かなきゃだから当然なんだけーど。

 

後ろのほうが大分連続体したけど、まぁこれもMEMEってことで(脳死
ラストの特別対談は星野源
パラパラてきとーめくっていたけど『ドラえもん』の話題が出た途端に居直って真剣に読みましたとさ。

 

お焚き上げ(相反する健康)

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どちらかと言うとフラットなマイナートランキライザー(舌の上で溶かせるタイプ)の思い出せない用法用量を舐めながら歩きながら思い出そうとしてるうち、山手線の内回りか外回りかもはっきりしない、けどそっか、品川から巣鴨は真ん中くらいだしいいや。乗った。そう、で、席の隅に老婆がいた。ピンク色のフワフワな帽子を被ってて、いい人生を歩んできそうな人。老婆の横の窓の向こうからは某美少女萌え萌え二次元アイドルの広告看板が見えて、一時PCエロゲーの開発に携わった業務の苛烈さで精神を崩し、以降美少女恐怖症と名付け定期的に起こる強迫観念症に近い動悸はさらさら溶けた薬のお陰で助かった。まぁ、伝えたいことは薬のラムネを薄めた感じの味の話じゃ無い。臭いだ。 美少女萌え萌え二次元アイドルに背後から見つめられた老婆からは臭いが滲みてた。ものが干からびた、と言うよりは、土をひっくり返した時にちょっと湿った臭いがした感じに近い。どうあれ不快であることに変わりはない。「これが死臭ってやつか?」なんてラリった馬鹿に思われるとしったらきっと老婆も怒髪天
 死にたいと思ったことならある。ただ死ぬのが怖いからマイナーなトランキライザーに寄り添ってる。死にたくは無い。今だってカーペンターズのSINGを聴きながらバックでコーラスしてる子供たちの声に涙を流してる。子供の頃に帰りたい。胎児よ胎児よ母の子宮の中で躍ってたい。じゃあ老婆は? 老婆もこう見えて、きっと死を間近にして考えあぐねて、曽祖父母の子宮に、この場合は老婆のお母さんの子宮に帰りたいって思ってるのか。どうあれなんと言うか、お互い生きてるんだなって不思議な感じがした。
 巣鴨についた。全く同じ美少女萌え萌え二次元アイドル広告看板があった。オマエは死ね。

ドラえもんを神聖視できない

 

 

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ドラえもんのび太の月面探査記』ティザーが公開された。
脚本は小説家の辻村深月。この情報を知った時、何とも言えぬ虚無感が胸中を占めた。彼女は脚本抜擢に当たり、聖書の続きを書くようなものと答えたらしいが、正直如何なものだろう。と言うのも、創作と言う行為は尊くあってはいけないからだ。

 

創作には責任が伴う。どのような規模であってもそれは当てはまるし、仮に一人で書き上げる小説媒体でも然り。完成した作品は作者の手に留まらず、現実と言う形而下を広く伝播し影響を及ぼす。是非の問題ではない。思想へアクセスするだけの特権を内包していることが重要なのだ。月面探査と言うテーマを「子供へ夢を与える素晴らしいモノ」と言うレビューと、「ソ連の宇宙開発を想起させ、社会主義の礼賛を彷彿させるモノ」と言うレビューが同時に産まれ唱えられるだけの逆行的可能性を、創作と言う行為は秘めているのだ。現に映画ドラえもん第四作目『海底鬼岩城ひみつ道具に過ぎない「水中バギー」が命を賭してしずかちゃんを助ける名シーンへの賛美と、新劇場版リメイクされない理由としてムー連邦とアトランティス連邦が開発した核兵器で互いに牽制し合う冷戦示唆が子供への悪影響を及ぼしかねないと言及するレビューが同時に存在する。重ねて言うが是非の問題ではない。創作をする上でそれだけの可能性と向き合う必要があると言う話だ。研鑽に研鑽を重ね、金銭と相談し、最後にはある程度の見限りも辞さない泥臭い行為なのだ。

 

 

 

聖書とは周知の通り、世界で最も重版された書物である。だが同時にその教義が人類にもたらしたのは、安寧と同時、血塗られた歴史である。法王が少年少女へ行っていた性的虐待が露見したことも記憶に新しい。彼女は「聖書」という例をあげたが、軽々しく相対させて良いモノだろうか。他者が生み出したコンテンツである以上、リスペクトは必要だ。必要だが、彼女はそれが神聖視と言う形にまで昇華しているがために、『ドラえもん』と言うコンテンツが秘める可能性に向き合い切れていないのではないか?などと勘繰ってしまう。

 

例えばインターネットで散見する「『ひぐらしのなく頃には凄惨な話ではない。仲間を信じる事の大切さを教えてくれる素晴らしいコンテンツだ」と言った旨のレビュー。確かにそれも事実だが、ぼくは『ひぐらしのなく頃に』が持ち得る衝撃、現実で模倣されるだけの残虐性を否定してしまうのは間違っていると常々考えている。真夏の時分、あの作品を観た後。イヤな汗を掻きながら、道端ですれ違う人間へ疑惑の視線を向け、友人とのふとした口論の最中に意図せず沸き上がった鈍色の衝動を否定してしまうのは、『ひぐらしのなく頃に』へのリスペクトを欠いていることに成りかねないのではないか?

 

…思わず新本格派から多大な影響を受けた竜騎士07と、新本格派としてデビューした辻村深月を同時に綴ってしまったが。

 

高校生の頃、辻村深月のデビュー作である『冷たい校舎の時は止まる』を読んだ。
メフィスト賞を受賞し、新本格派の一つとして評されたこの作品は、真冬の閉鎖空間に閉じ込められ、登場人物たちの現実世界における存在の有無を巡って謎が展開していくと言う、青少年少女の心象を投影した繊細な作品であり、当時心に刺さったことをよく覚えている。だが舞台の美しさよりも事件の真相よりも、最も記憶に焼き付いたのは、当作品の主人公の名前が辻村深月だったことだ。創作行為に置いて作者の自己投影が行われるのは間違い無いが、よもや主人公の名前として描くとは。作中の「辻村深月」が嗚咽しながらトイレで自身の名が描かれた紙を破って捨てるシーンは必見である。確か挿絵まであったはず。

 

 


以上から、高校生時分のぼくの辻村深月に対する評価は「非常に感じ入るタイプの作家」であった。後年、辻村深月は『凍りのくじら』を執筆し、作中で「フエルミラー」や「テキオー灯」を登場させるなど、ドラえもんに対する深い造詣を描き、彼女がドラえもん好きであることを初めて知った。(因みにぼくが彼女の作品で最も好きな作品である。最も嫌いなのは『ツナグ』である)

 

 

凍りのくじら (講談社文庫)

凍りのくじら (講談社文庫)

 

 

 

SF(すこしふしぎ)と言う藤子・F・不二雄の思想を作中で惜しげなく綴った彼女のドラえもんへのリスペクトは本物だろう。だが、だからこそ聖書の続きなどと評してしまう、ある種の軽薄さを、ぼくは容認しきれないのだ。

 

まぁツラツラと書いたが、『月面探査記』は例年通り観に行くだろう。
願わくば近年最高傑作の『ひみつ道具博物館』並みの作品となって欲しい。

 

 

 

個人的報告その他同人

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冬コミ落選以来、否、2018年度初からよく分からない変遷を経ましたが。

色んな人にかまってもらったお陰で、色々ごとは寛解中です。痩せたなおい。因みにいまはスキンヘッドです()

近く同人の方でも正式に発表予定です。もうちょい待ってくだだい。

 

https://ecreate-games.com/ai-gawa/

 

今年度で最後ですし、暮れは京都で開発続けます。

時間がある人は向精神薬でも砕いて一緒に遊びましょう。

小インド北大路

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北大路ビブレにいきなりステーキができた。

ビブレはあのアンニュイな時代遅れの停滞感が良かっただけに、どこか寂しくてならない。

京都には小インドスポットと言う、時間の流れが違う場所が点在する。

今のところ発見できているのは龍安寺の石庭、北大路から北山にかけての鴨川沿い、同志社女子大、佛教大キャンパスなどだ。

もっと散策したいがじきに去るのが残念でならない。

ところで回転の早いいきなりステーキではなく、仄暗く24時間開店してる本格カレー店などどうだろうか。

シアンシアン

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フェミニミャン星人A「病院? 連れて行かないよ、君が誰かを殺そうとしない限りは。君の言うことを私は一切信用しないから、以後そのつもりで。そう言う話がしたかったらまたおいで」

 

視神経は卒倒期。鶏の夢を見て遥か遥か。

粍蒙昧の存在感は得てして発勁、録音機。

鰊をください。湯がいて白湯。

 

元気です、元気。

これからも。