ドラえもんを神聖視できない

 

 

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ドラえもんのび太の月面探査記』ティザーが公開された。
脚本は小説家の辻村深月。この情報を知った時、何とも言えぬ虚無感が胸中を占めた。彼女は脚本抜擢に当たり、聖書の続きを書くようなものと答えたらしいが、正直如何なものだろう。と言うのも、創作と言う行為は尊くあってはいけないからだ。

 

創作には責任が伴う。どのような規模であってもそれは当てはまるし、仮に一人で書き上げる小説媒体でも然り。完成した作品は作者の手に留まらず、現実と言う形而下を広く伝播し影響を及ぼす。是非の問題ではない。思想へアクセスするだけの特権を内包していることが重要なのだ。月面探査と言うテーマを「子供へ夢を与える素晴らしいモノ」と言うレビューと、「ソ連の宇宙開発を想起させ、社会主義の礼賛を彷彿させるモノ」と言うレビューが同時に産まれ唱えられるだけの逆行的可能性を、創作と言う行為は秘めているのだ。現に映画ドラえもん第四作目『海底鬼岩城ひみつ道具に過ぎない「水中バギー」が命を賭してしずかちゃんを助ける名シーンへの賛美と、新劇場版リメイクされない理由としてムー連邦とアトランティス連邦が開発した核兵器で互いに牽制し合う冷戦示唆が子供への悪影響を及ぼしかねないと言及するレビューが同時に存在する。重ねて言うが是非の問題ではない。創作をする上でそれだけの可能性と向き合う必要があると言う話だ。研鑽に研鑽を重ね、金銭と相談し、最後にはある程度の見限りも辞さない泥臭い行為なのだ。

 

 

 

聖書とは周知の通り、世界で最も重版された書物である。だが同時にその教義が人類にもたらしたのは、安寧と同時、血塗られた歴史である。法王が少年少女へ行っていた性的虐待が露見したことも記憶に新しい。彼女は「聖書」という例をあげたが、軽々しく相対させて良いモノだろうか。他者が生み出したコンテンツである以上、リスペクトは必要だ。必要だが、彼女はそれが神聖視と言う形にまで昇華しているがために、『ドラえもん』と言うコンテンツが秘める可能性に向き合い切れていないのではないか?などと勘繰ってしまう。

 

例えばインターネットで散見する「『ひぐらしのなく頃には凄惨な話ではない。仲間を信じる事の大切さを教えてくれる素晴らしいコンテンツだ」と言った旨のレビュー。確かにそれも事実だが、ぼくは『ひぐらしのなく頃に』が持ち得る衝撃、現実で模倣されるだけの残虐性を否定してしまうのは間違っていると常々考えている。真夏の時分、あの作品を観た後。イヤな汗を掻きながら、道端ですれ違う人間へ疑惑の視線を向け、友人とのふとした口論の最中に意図せず沸き上がった鈍色の衝動を否定してしまうのは、『ひぐらしのなく頃に』へのリスペクトを欠いていることに成りかねないのではないか?

 

…思わず新本格派から多大な影響を受けた竜騎士07と、新本格派としてデビューした辻村深月を同時に綴ってしまったが。

 

高校生の頃、辻村深月のデビュー作である『冷たい校舎の時は止まる』を読んだ。
メフィスト賞を受賞し、新本格派の一つとして評されたこの作品は、真冬の閉鎖空間に閉じ込められ、登場人物たちの現実世界における存在の有無を巡って謎が展開していくと言う、青少年少女の心象を投影した繊細な作品であり、当時心に刺さったことをよく覚えている。だが舞台の美しさよりも事件の真相よりも、最も記憶に焼き付いたのは、当作品の主人公の名前が辻村深月だったことだ。創作行為に置いて作者の自己投影が行われるのは間違い無いが、よもや主人公の名前として描くとは。作中の「辻村深月」が嗚咽しながらトイレで自身の名が描かれた紙を破って捨てるシーンは必見である。確か挿絵まであったはず。

 

 


以上から、高校生時分のぼくの辻村深月に対する評価は「非常に感じ入るタイプの作家」であった。後年、辻村深月は『凍りのくじら』を執筆し、作中で「フエルミラー」や「テキオー灯」を登場させるなど、ドラえもんに対する深い造詣を描き、彼女がドラえもん好きであることを初めて知った。(因みにぼくが彼女の作品で最も好きな作品である。最も嫌いなのは『ツナグ』である)

 

 

凍りのくじら (講談社文庫)

凍りのくじら (講談社文庫)

 

 

 

SF(すこしふしぎ)と言う藤子・F・不二雄の思想を作中で惜しげなく綴った彼女のドラえもんへのリスペクトは本物だろう。だが、だからこそ聖書の続きなどと評してしまう、ある種の軽薄さを、ぼくは容認しきれないのだ。

 

まぁツラツラと書いたが、『月面探査記』は例年通り観に行くだろう。
願わくば近年最高傑作の『ひみつ道具博物館』並みの作品となって欲しい。